雛人形の基礎知識

2008年11月28日 (金)

現代の雛人形の系譜(その5)

昭和11(1936)年には、改組第1回帝展において初めて第四部(美術工芸部門)に人形の出品が認められるようになり、鹿児島寿蔵、野口光彦、野口明豊、羽仁春水、平田郷陽、堀柳女の6名が入選を果たします。

こうして公に秩序づけられた美術界の中に処を得たことにより、人形は芸術の一分野として大きく発展を遂げました。

この昭和初期の一連の動向を、後の世の人たちは『人形芸術運動』と呼んでいますが、この運動を通して雛人形にも、芸術性を帯びた鑑賞用としてのあり方が完全に具備されたということができます。

そして、この流れは戦後にも確実に引き継がれ、昭和30(1955)年に文化庁により、歴史的芸術的価値を認めてその存続に資するための「重要無形文化財の指定と保持者の認定」が行なわれた際に、人形の分野からは平田郷陽と堀柳女のふたりが認定を受けました。

9908その後、昭和36(1961)年には、鹿児島寿蔵が認定を受け、更に昭和41(1966)年には、私の祖父である原米洲の創り出した『人形の胡粉仕上の技法』が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として認定されました。

平安時代の“ひいな遊び”から始まった雛人形は、祓(はら)いの道具である「ひとがた」の呪術的(じゅじゅつてき)要素を受け継ぎ、そして昭和の『人形芸術運動』を通して芸術性を具備することにより、世界に誇るべき雛人形として現代に至っています。

2008年11月20日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その16)

平成時代になり、平安貴族の子供たちが“ひいな遊び”を楽しんだ時代より1000年以上が過ぎた現代でも、雛人形は今だに多くの人々に愛し続けられています。

人形・玩具研究の第一人者であった故 斎藤良輔先生は、その著書『ひな人形』(法政大学出版局)の中で、“現代の雛”を以下のように記しています。

多様化されている現代雛にも、共通した心理的底流がある。
それは、愛するわが子の「安泰をねがう」祈りがそこにこめられている、ということである。平安の遠い昔から、日本民族が心に抱いてきたものが、いまなお現代雛に投影し、生きつづけている。ドライな現代の風潮のなかで、これらの人形だけが“おひなさま”と昔ながらの敬称で呼ばれているあたりには、祈りという潜在心理の根の深さが感じられる。その意味で、日本のは、10世紀以上の長い流れのなかで、さまざまな移り変わりを経験しながら、いつも古くて、そして新しい生命を宿しているものなのである。

_dsc9476ふらここは、雛人形とは日本人の美しい心そのものだと考えています。そして、これからも、いつまでもいつまでも大切に守り続けてゆきたいと心から願っています。

2008年11月19日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その15)

長い歴史の中で、雛人形は天皇を象徴したものとは限らず、一般には公卿(くげ)社会の男女を表し、また江戸時代には武家社会の男女を表したものも登場しました。
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それが昭和時代に入ると、雛人形は意識的に皇室をかたどったものとして扱われるようになります。

そのようなことも、昭和6(1931)年に勃発した満州事変をかわきりに、やがて昭和16(1941)年には大東亜戦争へ突入してゆく軍国主義台頭の前兆であったのでしょうか?

大東亜戦争下の日本では、もはやひな祭りをする余裕はどこにもありませんでした。
※ 広島平和記念資料館

しかし、昭和20(1945)年に長い戦争が終わり、昭和25(1950)年の朝鮮戦争による特需景気、そして昭和30(1955)年の神武景気へと戦後景気の回復に並行して、再び雛人形の人気が復活するのにそれほどの時間はかかりませんでした。

更に“昭和元禄”の新語が登場した昭和42(1967)年前後には、高度経済成長の波に乗って雛人形はますます豪華になってゆきます。

2008年11月18日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その14)

昭和時代に入ると、雛人形の飾り方に大きな変化が生じました。

それまでは男雛を向かって右、女雛を向かって左に飾っていたものが、東京では男雛と女雛の位置を反対に飾るようになります。

これは昭和3(1928)年11月10日に、天皇陛下の即位の大礼を紫宸殿で挙行の際、天皇の高御座(たかみくら)が中央に置かれ、皇后席はその向かって右のやや後ろに据えられたのを参考にしたといわれています。

明治、大正、昭和の三代の即位式の中で、天皇と皇后おそろいの儀典はこれが初めてであり、東京の雛人形業界では、この「即位御大典」の位置を参考にして、改めて男雛と女雛の位置を決定しました。

しかし、この飾り方は当時かなりの物議をかもし、しばしば「左右問題」をめぐる議論が繰り返されました。特に京都を中心にした関西地方では、古くからの飾り方を正しいとして激しく反論しました。

東と西で二つに分かれたこの飾り方も、雛人形販売の主な拠点であった百貨店が東京方式を採用したことから、やがて男雛を向かって左、女雛を向かって右に置く飾り方が一般に普及し、大勢を占めるようになりました。
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ちなみに宮内庁の話では、「現在は公式の席でも非公式の席でも天皇陛下が向かって左、皇后様が右です」とのことです。


『昭和天皇と香淳皇后』昭和50(1975)年撮影

2008年11月17日 (月)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その13)

江戸時代には京都や大阪と江戸では、雛段の飾り方が異なっていたことは前にも触れました。

これが、江戸時代の末期頃からは、江戸でも京都形式の官女や随身を取り入れ、これに江戸独特の五人囃子を加えた飾り方が一般的となります。
また調度類も、公卿(くげ)風なものに江戸の武家や町家風の諸道具を付け加えた、現在の形式が次第に広まってゆきました。

01 現在では、内裏雛を最上段に飾り、左右に雪洞(ぼんぼり)を置き、背後に屏風を立てます。また、内裏雛の中央前に三方(さんぼう)に徳利を乗せて供えます。
次段は三人官女(中央が坐り姿で盃を持ち、向かって右は長柄、左は銚子を持つ立ち姿)です。
三段目は、五人囃子(能の囃子方と同じ位置で、向かって右から扇を持って謡う者、次が笛、中央が小鼓、次が大鼓、左端が太鼓)です。
四段目は、随身(ずいしん)を左右(左大臣を向かって右、右大臣を向かって左)に置き、その中央に御膳を供えます。
その次の段には向かって左に橘(たちばな)、向かって右に桜を飾り、その間に仕丁(衛士ともいい、向かって右から立傘、中央が沓台、左側が台笠)を並べます。
そして、その下段には調度を並べ、最下段には駕籠(かご)や御所車などの乗り物を飾ります。

この飾り方は、大正12(1923)年に起きた関東大震災の後、百貨店が雛人形と調度を組み合わせて売り出したことが始まりですが、今日ではすっかりお決まりの物として定着しています。

2008年11月16日 (日)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その12)

明治時代になり、“文明開化”を唱えて社会の近代化が進められる中で、明治5(1872)年に新暦(太陽暦)が実施され、それの伴って五節句の廃止が発令されると、ひな祭り端午の節句の行事は急速に衰えてゆきました。

R03423_2 しかし、庶民の節句に対する関心が簡単に消え失せることはなく、明治10(1877)年に国内産業を興隆させる目的で第1回内国勧業博覧会が東京で開催されると、再び節句人形の製作が活気を取り戻してゆきます。

また、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)の2度の大戦によりナショナリズムが高まると、ひな祭りの行事は、明治天皇が国民教育の基本理念を明示するために下した「教育勅語」に基づく国民的な行事であるとして、ますます盛んに行なわれるようになりました。

※ 「明治時代の雛人形」(『風俗画報』69号より)

そして、その繁栄ぶりに更に拍車をかけたのが、明治末期の百貨店の出現でした。
まず明治40年に三越呉服店がデパートメント・ストアの組織を整えると、これに次いで白木屋、松屋、松坂屋などの大呉服店が続々と同様の営業法に改めました。

これらの百貨店が互いに競い合って、正札販売や商品宣伝運動などの近代的な商法で、高級感あふれる斬新な雛人形を次々と創作し大々的に売り出すようになると、雛人形はもはや古臭い因習のシンボルではなく、新しい時代を反映するファッショナブルな商品へと変貌(へんぼう)を遂げてゆきます。

【注】五節句・・・人日(じんじつ):1月7日 七草の節句、上巳(じょうみ):3月3日 桃の節句・ひな祭り、端午(たんご):5月5日 菖蒲の節句、七夕(たなばた):7月7日 星祭、重陽(ちょうよう):9月9日 菊の節句

2008年11月14日 (金)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その11)

『次郎左衛門雛』と前後して現れた代表的な江戸雛に『古今雛』があります。
この雛人形は、明和年間(1764~72年)に上野池之端の雛人形問屋が日本橋十軒店の人形師  原 舟月に作らせた江戸生え抜きの雛人形です。

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『古今雛』の顔は『有職雛』を原型とし、写実的で精巧に作られ、両目に玻璃玉(はりだま:ガラス)や水晶をはめ込んだ作品もありました。

衣裳には、金糸や色糸などで鳳凰(ほうおう)、薬玉(くすだま)などの縫紋(ぬいもん)を加工し、袖には紅綸子(べにりんず)を用いて華麗な彩色に仕立てました。

※ 山形県鶴岡市「致道博物館」所蔵(画像提供 /  庄内観光コンベンション協会

こうした近代的な容貌(ようぼう)と美しい装束が人気を呼び、それまで王座を占めていた『次郎左衛門雛』に代わり、江戸のみならず京都や大阪でも大流行しました。

また、当時は上方と江戸との間で盛んに雛商いの交流があったので、原 舟月が彫った顔の仕上げを京都の職人に依頼するなど、専門分野ごとの分業による雛人形の製作が行なわれていました。

そして、これ以降の雛人形は、ほとんどが『古今雛』にならって作られるようになり、この型を踏襲して今日に至っています。

2008年11月13日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その10)

『次郎左衛門雛』が江戸に定着した宝暦年間(1751~63年)に、京都では新しい雛人形が生まれました。有職故実(ゆうそくこじつ)に基づいて、公卿(くげ)の衣裳を正しく雛人形化したもので、明治以降に『有職雛』と呼ばれるようになった雛人形です。

Syusoku_2 宮中に仕えて公式装束などの調整を掌(つかさど)っていた公卿の高倉家と山科家が調進したことから、当時は『高倉雛』や『山科雛』の名前で呼ばれていました。


※ 山形県鶴岡市「致道博物館」所蔵
(画像提供 /  庄内観光コンベンション協会

衣冠(いかん)姿、あるいは直衣(のうし)姿の雛人形が多く、特に後者の場合は着替え用として男雛には「束帯(そくたい)」、女雛には「十二単(じゅうにひとえ)」を添え、思い思いに着せ替えを楽しみました。


【注1】衣冠(いかん)・・・「衣冠」とは、「束帯(そくたい)」の略装として広く参内(さんだい)に用いられた装束です。「束帯」が「燕尾服」に相当するとすれば、「衣冠」は「モーニングコート」に当たる公服で、自家の大儀である祭典や婚礼などに用いられました。

【注2】直衣(のうし)・・・「直衣」とは、平安時代のエリート貴族の平常服です。一般の公卿が誰でも着られる服ではなく、天皇の信任が篤(あつ)い人、あるいは身分の高い人に限り、天皇の宣旨(せんじ)を賜って初めて宮中への出仕に着られる服です。『源氏物語』には、直衣姿の光源氏が描かれています。

2008年11月12日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その9)

江戸時代初期、いわゆる元禄期(1688~1703年)以前には雛段はあまり用いられず、毛氈(もうせん)の上に内裏雛だけを飾り、調度類も少なく、菱餅や白酒を供える程度の飾りでした。

江戸時代中期になり、雛市が盛んになるにつれ、雛段に雛人形を飾るようになり、調度類も賑やかになります。

雛段の数も、宝暦~明和年間(1751~71年)には二、三段であったものが、安永期(1772~81年)の頃は四、五段のものも現れ、それが江戸末期には七、八段物まで見られるようになります。

雛段の飾り方は、京都や大阪では御殿を飾り、その中に内裏雛を入れ、官女、随身、仕丁(衛士)、桜橘、調度類に燭台、そして市松人形などを飾りました。
また江戸では、御殿の代わりに屏風を立てて内裏雛を飾り、江戸独特の五人囃子、武家の嫁入り道具を模した調度類、そして雪洞(ぼんぼり)と桃の花を飾りました。

1000003643_9900021_2 江戸時代中期に流行した人形に、元文~寛保年間(1736~44年)に人気を博した京都四条の若衆形人気俳優、佐野川市松に模して作られた市松人形があります。

また、この頃から、最初は女子の誕生祝とは関係がなかったひな祭りが、女子の初節句を祝う行事となり、雛人形の贈答も盛んに行われるようになります。

『佐野川市松の祇園町白人おなよ図』東州斎写楽
(版画『寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵』より)

※画像提供 / 文化庁

2008年11月11日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その8)

京都で有名な人形師であった雛屋次郎左衛門が、宝暦11(1761)年に江戸に下り、日本橋室町二丁目に店を開くと、雛屋次郎左衛門が創始した『次郎左衛門雛』が、『享保雛』に代わって次第に江戸の人気を独占するようになります。

もともと京雛であった『次郎左衛門雛』は、江戸の地にすっかり根を下ろし、その人気は宝暦に続き、明和、安永、天明、寛政年間まで約30余年間に及び、上下階級に広く親しまれました。

1170170442_4 『次郎左衛門雛』の特徴は、丸顔に引目鉤鼻(ひきめかぎばな)。愛らしい丸い顔に切れ長の目と小さな鉤鼻(かぎばな)。そして、ちょこんと紅を置いた小さな口元は、それまでの面長の顔と違い、庶民に親しさを与えました。

男雛の衣裳は、黒袍(くろのほう)に袴(はかま)をつけた公卿(くげ)の束帯(そくたい)姿。女雛は、五つ衣(いつつぎぬ)、唐衣(からぎぬ)に裳(も)の装束です。

江戸の庶民に愛され、いくつもの川柳に詠まれたこの雛人形は、与謝 蕪村(よさの ぶそん:1716~84年)の句にも次のように詠まれています。

たらちねのつまゝずありや雛の鼻

※ 画像提供 / 成巽閣

2008年11月10日 (月)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その7)

雛人形が町人社会にまで広く流通するようになった元禄~享保(1688~1736年)の頃、一定期間に、許された場所で、雛人形を販売する「雛市」がたつようになります。
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「雛市」とは、道の中央に仮店を設けて、本来の両サイドの店と合わせて3列あるいは4列に並んだ店で雛人形を売る形式で、現在では東京・浅草観音境内の「仲見世」にその名残を留めています。 
※『十軒店の雛市』(『江戸名所図会』より)

Ph07_01享保年間(1716~36年)には、既に100万都市にまで成長していた江戸では、十軒店(じゅっけんだな:東京都中央区日本橋室町3丁目付近)を中心に、浅草茅町(あさくさかやちょう:東京都台東区浅草橋)や人形町など各地に雛市がたち、どこでも大変な賑わいを見せていました。

※『十軒店跡』の碑
ふらここもここ日本橋で生まれました!


元禄2(1689)年3月、松尾芭蕉がみちのくの旅に出発する際に詠んだ句に、雛人形が当時の庶民の生活に浸透している様子が窺(うかが)われます。

草の戸も住替る代ぞひなの家(『奥の細道』)

2008年11月 9日 (日)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その6)

『寛永雛』の次に登場する雛人形が、『享保雛』です。

この雛人形は、元禄期が過ぎて享保年間(1716~36年)に流行したもので、比較的に大型のものが多く、60㎝以上のものまでありました。

Kyouho1_3 男雛は両袖を極端に張り、太刀を差し、笏(しゃく)を持っています。
女雛は、五つ衣(いつつぎぬ)と唐衣(からぎぬ)を着た姿で、袴(はかま)は綿を入れて丸く膨らませてあり、頭には天冠(てんがん)を被り、手には檜扇(ひおうぎ)を持っています。

享保雛(男雛49.8㎝、女雛41.8㎝)

これらの衣裳は、金襴(きんらん)や錦でできており、顔は面長でとても写実的な表情をしています。

この豪華な雛人形は、その頃に台頭してきた町人社会にも迎えられましたが、8代将軍 徳川吉宗が行なった享保の改革により、「八寸(約24㎝)以上のものの制作を禁じる」として、しばしば取締りを受けました。

※画像提供 / 財団法人 本間美術館

2008年11月 8日 (土)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その5)

長い戦乱の時代が終わって、江戸時代の平和な世の中になると、室町時代に芽生えた坐り雛は大きく発達を遂げてゆきます。

Hina05布で作られた江戸時代の坐り雛として、最初に登場する雛人形は『寛永雛』です。

現存している『寛永雛』は、男雛が12㎝余り、女雛が9㎝余りの小さな雛人形。女雛は唐衣(からぎぬ)も裳(も)も付けず、男雛と同じ小袖を着て、両手を左右に広げています。

寛永に続く正保元年(1644年)三月朔日に、三代将軍 家光の娘、千代姫7歳の祝いを兼ねて、諸老臣が雛人形を献上した記録が残っています。

この頃には、京の文化は江戸の大奥にまで浸透しており、その後次第に一般庶民にも広くゆき渡っていきます。

そして、製作技法の発達と共に、雛人形は益々精巧で華美なものになってゆきます。

※ 画像提供/京都国立博物館

2008年11月 6日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その4)

雛人形をひな祭りに飾る風習が広く庶民の間に浸透するのは、江戸時代に入ってからのことですが、それ以前の室町時代に、雛人形は造形の上で新たな段階を迎えることになります。

この時代は、中国(明)からもたらされた工芸美術など様々な外来文化を受け入れつつも、それらを逞(たくま)しく消化して、日本独特の文化を作り出した時代でした。

そして、能や狂言、また茶道や活花など数々の室町芸術が生まれました。

また、年中行事が武家や庶民の間で独自の発展を遂げ、三月三日にひな祭りが行なわれるようになったのもこの時代です。

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“室町雛”

※江戸時代の考証随筆『骨董集』(山東京伝)より

こうして、身の穢(けが)れを祓(はら)い川に流すための「ひとがた」は、家に飾り観賞するための「にんぎょう」へと発展し、続く江戸時代に大発展を遂げる“坐り雛”へと引き継がれてゆきます。

2008年11月 4日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その3)

雛人形の始まりが、源氏物語にも登場する“ひいな遊び”であることは前にも触れましたが、平安時代にはままごと遊びに用いる男女一対の人形であったものが、1000年以上の長い歴史の中で様々に変化を遂げながら、今日の雛人形となってゆきます。

2008_11040026_edited 平安時代には、人形は「ひとがた」と呼ばれ、身の穢(けが)れや禍(わざわ)いを移し負わせて、川や海に流す祓(はら)いの道具でした。

源氏物語の須磨の巻にも、「三月の朔日に出で来たる巳の日」に、海岸で陰陽師(おんみょうじ)に祓(はら)いをさせたのち「船にことごとしき(※おおげさな)人形(ひとがた)のせて流す」のを源氏がながめる場面が描かれています。

呪術(まじない)的な「ひとがた」が、同時に“ひいな遊び”に用いられた遊びの道具である人形と密接に結びつき、更には、中国から伝わった「上巳の節供(じょうみのせっく)」と複合して、“雛人形”となったのは室町時代になってからのことです。

この頃、ようやく「ひとがた」は「にんぎょう」と呼ばれるようになり、観賞用の坐(すわ)り雛が登場し、三月三日にひな祭りが行なわれるようになります。

2008年10月30日 (木)

源氏物語と襲色目(かさねのいろめ)

十二単(じゅうにひとえ)など、衣服を重ねて着る時の重ね着の色の配列を「襲色目(かさねのいろめ)」といいます。

平安時代の貴族たちは、自然の美しさをこの上なく愛し、四季折々の風物に合わせて衣服の色の組み合わせを楽しみました。季節によって衣服に使用する色には決まりがあり、貴族の女性たちは、この「襲色目(かさねのいろめ)」を大切な教養のひとつとしていました。そして才智を結集し、衣裳の袖口などに表れる彩色の美しさを競い合いました。

平安文学を代表する紫式部の『源氏物語』にも、四季折々の風物と調和した「襲色目(かさねのいろめ)」の美しさが随所に描かれています。

Cp_kasane 今でも、この「襲色目(かさねのいろめ)」は雛人形の装束に取り入れられ、平安の美を現代に引き継いでいます。

2008年10月29日 (水)

蛤(はまぐり)と貝桶(かいおけ)

行器(ほかい)にとても良く似た雛人形のお道具に、「貝桶(かいおけ)」があります。

P12_2_2 貝桶(かいおけ)とは、「貝合わせ」に使う蛤(はまぐり)の貝殻を入れておく容器一対のこと。貝合わせとは、蛤(はまぐり)の内側に描いた絵をふたつ合わせる遊びです。 
                                                                                                                                          ※画像提供 / 風俗博物館

Image_2_3 蛤(はまぐり)は二枚の殻が一対となり、他の殻とは決してぴったりと合わないことこら、夫婦の仲の良さを象徴する、めでたい貝とされています。

そのため貝桶(かいおけ)は、輿入(こしい)れの際に婚礼調度の行列の筆頭を飾るほど、とても重要なお道具でした。

そして、平安時代の貴族たちは、蛤(はまぐり)の内側に描かれた揃いの絵柄を合わせて遊ぶ貝合わせを楽しみました。

2008年10月28日 (火)

上巳(じょうみ)の節句と曲水の宴(きょくすいのえん)

平安時代に宮廷貴族のあいだで行なわれていた“ひいな遊び”は、紙などで貴族の姿を作り、貴族の暮らしをまねる飯事(ままごと)遊びのようなものでした。

10歳くらいまでの子供たちが男女を問わず、人形やミニチュアの御殿や食器などをこしらえて、殿上(てんじょう)への参内(さんだい)ごっこや宴(うたげ)ごっこをして遊んでいました。

この“ひいな遊び”と、身の穢(けが)れを人形(ひとがた)に移して水に流す祓(はら)いの行事とが結びついて、『上巳(じょうみ)の節句』として定着したのが、現在のひな祭りの起源です。P11_1s_4






※ 『曲水宴屏風』
(画像提供 /     風俗博物館

この『上巳(じょうみ)の節句』が中国から伝来したとき、「曲水の宴(きょくすいのえん)」という風習が日本に伝わり、宮廷で催されるようになります。「曲水の宴(きょくすいのえん)」とは、穢(けが)れを祓(はら)った水辺で杯(さかずき)を流し、杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠むという行事です。

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現代でも、雛道具の中に、草餅などを入れて持ち運ぶ「行器(ほかい)」というお弁当箱が含まれているのは、野外での行事用という訳です。

2008年10月24日 (金)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その2)

ひな祭りの歴史は、平安時代から始まり、千年以上も続いています。

お祭りのやり方は時代と共にさまざまに変化してきていますが、根底に流れる「心」は今も昔も変わりません。昔の人たちは、節句という節目の行事を通して、その「心」を親から子へと綿々と伝えてきました。

それでは、現代社会では、ひな祭りを通してどのような「心」を学ぶことができるのでしょうか?東京都知事である石原 慎太郎氏の著作の中から、その「心」について見てみましょう。

石原 慎太郎氏が2001年に上梓した『いま 魂の教育』(光文社刊)という本があります。この本は、「世界で最も豊かな、世界で最も不幸な子供たち」になってしまった日本の子供たちを憂いて書かれた作品です。

この本の中で石原氏は、「女の子のために雛人形を飾って祝う雛祭りは、日本人の民族のひとつの優雅な性情を語る伝統的でじつにユニークな催しだ」とした上で、子供のころに他家の雛祭りに招かれていった時のエピソードに触れて、ひな祭りを次のように位置づけています。

それはある意味で、女の子にとってはある分野における男に対する女の優位を教える意義深い祝日に違いない。いずれにしても、その日に男の子、女の子が知らなくてはならないことは、女性の特質が優雅さ、雅さ、やさしさについてであり、それがあるからこそ、男性の特質である猛々しさ、勇敢さといったものと均衡がとれた世界があり得るということです。

ひな祭りとは、女の子にとっても男の子にとっても、女性ならではの“やさしさ”を意識するための特別な日だという訳です。

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いま魂の教育

2008年10月22日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その1)

ひな祭りは、古くは「上巳(じょうみ)の節句」と呼ばれていました。

上巳(じょうみ)の節句は、元々は中国から伝わった行事ですが、これが日本の古い習わしと結びつき、長い時間をかけて今日のひな祭りになりました。

上巳(じょうみ)の節句が日本に伝わった当時は、身の穢れ(けがれ)や災いを人形(ひとがた)に移し水に流す祓い(はらい)の行事が中心でした。この人形(ひとがた)の面影を現代に留める雛人形が、立雛です。

Image_31_2現代でも、紙などで作った立雛を川や海に流す「流し雛」の風習が、全国のあちらこちらに残っています。

2008年10月19日 (日)

平安時代から続く雛人形

今年は、世界最古の長編小説である『源氏物語』が、記録(『紫式部日記』の寛弘5(1008)年11月1日の条)の上で確認されるときから数えて1000年目に当たります。

この『源氏物語』の「紅葉賀(もみじのが)」の中に、主人公の光源氏が幼い紫の上を相手に、「もろともにひいな遊びし給う」と書かれたくだりが登場します。

この「ひいな遊び」がひな祭りの原点だといわれていますが、雛人形は1000年以上も昔から、宮廷貴族の遊び道具として大切にされていました。

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源氏物語千年紀委員会

2008年10月18日 (土)

なぜ雛人形を飾るのでしょうか?(日本人形協会の統一見解)

社団法人 日本人形協会では、「雛人形五月人形、羽子板・破魔弓、鯉のぼりに関する統一見解」を平成5年8月24日に開催された全国総会で決定しています。

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それでは、日本人形協会の見解を見てみましょう。

なぜ雛人形を飾るのでしょうか?

平安時代のお人形(ひいな)遊びと、紙やワラで作った簡素な人形(ひとがた)に自分の厄(やく)や災(わざわ)いを移して海や川へ流した流しびなの行事が結びついたのが現在の「ひなまつり」です。

ですから、雛人形を飾ることは、生まれた子供が、健康で優しい女性に無事に育つようにとの家族の願いが込められています。つまり、雛人形が身代わりとなってくれてその子に災いがふりかかりませんように、結婚など人生の幸福を得られますように、という家族の温かい思いが込められているのです。

2008年10月17日 (金)

雛人形って、なぜ飾るの?

私は代々の人形師の家系で育ったため、小さなときから当たり前のように雛人形五月人形が身近にありました。

Pic_face1_6 だから、雛人形五月人形のことを特別に意識することもなく過ごしてきた私にとって、“なぜ飾るのだろうか?”ということがとても気になりだしたのは、私自身が人形師としての道を歩み始めてからのこと。

では、なぜ雛人形五月人形を飾るのでしょうか・・・?

さて、このブログでは、雛人形五月人形のことを中心に、素敵な日本の文化や風習について、ひとりの人形師としての立場からお話をしてゆきたいと思います。