ひな祭り(雛人形)の歴史(その9)
江戸時代初期、いわゆる元禄期(1688~1703年)以前には雛段はあまり用いられず、毛氈(もうせん)の上に内裏雛だけを飾り、調度類も少なく、菱餅や白酒を供える程度の飾りでした。
江戸時代中期になり、雛市が盛んになるにつれ、雛段に雛人形を飾るようになり、調度類も賑やかになります。
雛段の数も、宝暦~明和年間(1751~71年)には二、三段であったものが、安永期(1772~81年)の頃は四、五段のものも現れ、それが江戸末期には七、八段物まで見られるようになります。
雛段の飾り方は、京都や大阪では御殿を飾り、その中に内裏雛を入れ、官女、随身、仕丁(衛士)、桜橘、調度類に燭台、そして市松人形などを飾りました。
また江戸では、御殿の代わりに屏風を立てて内裏雛を飾り、江戸独特の五人囃子、武家の嫁入り道具を模した調度類、そして雪洞(ぼんぼり)と桃の花を飾りました。
江戸時代中期に流行した人形に、元文~寛保年間(1736~44年)に人気を博した京都四条の若衆形人気俳優、佐野川市松に模して作られた市松人形があります。
また、この頃から、最初は女子の誕生祝とは関係がなかったひな祭りが、女子の初節句を祝う行事となり、雛人形の贈答も盛んに行われるようになります。
『佐野川市松の祇園町白人おなよ図』東州斎写楽
(版画『寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵』より)
※画像提供 / 文化庁


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