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2008年11月

2008年11月30日 (日)

ふらここの木目込み雛人形(その2)

ふらここのお人形は、一度手にしたら忘れられない可愛らしさ。

細面で大人びたお顔ではなく、親しみやすくてあどけない、そう、まるで赤ちゃんのような“ふらここ顔”。

4932_2赤ちゃんのお顔のお人形は、私の祖父・原 米洲が作り上げた作風なのですが、私自身も娘を授かったとき、赤ちゃんの顔には本当に心をいやす力があると確信しました。

また、「赤ちゃんの天真爛漫な笑顔は、仏像のお顔に通じるものがある。純真な心を持つ赤ちゃんの顔だからこそ、見る人の心をいやす力があるのだ」という祖父の言葉の意味も実感いたしました。

雛人形五月人形も、お子さまの初節句から何年も何十年も、ずっと一緒に過ごす宝物として大切に飾って欲しいから。だからこそふらここは、見る人、手にとる人の心をいやす赤ちゃんのお顔に近づけたいと考えているのです。

ふっくらとしたふらここ”のお人形が、お部屋をぱっと明るく彩り、たくさんの温かい思い出のお手伝いができますように。

それがふらここの願いです。

2008年11月29日 (土)

ふらここの木目込み雛人形(その1)

木目込人形(きめこみにんぎょう)とは、木製の胴体に溝を彫り、そこに布地の端を埋め込んで衣裳を着せて作るお人形です。

溝に布地の端を埋め込むことを「木目込む(きめこむ)」ということから、木目込人形と呼ばれるようになりました。

木目込人形は、今から約270年前、江戸時代の元文年間(1736~40年)に京都・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の雑掌(ざっしょう)であった高橋忠重が神具の柳筥(やないばこ)を作った余材で製作した人形に、神官の装束の残り裂(ぎれ)を木目込んだのが始まりであるといわれています。

それは、当初『加茂人形(かもにんぎょう)』として評判を呼び、これが江戸に伝わり、木目込人形として人気を博すようになりました。

Kodawari_picture_kijidukuri23木目込人形の胴体は、桐粉(きりこ)と正麩糊(しょうふのり)を練り合わせた桐塑(とうそ)を使って作ります。

ふらここ雛人形は、昔ながらの伝統技法を大切に守り、大量生産に適した合成樹脂や発泡スチロールは一切使用致しません。

長く愛され、そしていつまでも大切にして戴ける雛人形づくりが、ふらここの信条です。

2008年11月28日 (金)

現代の雛人形の系譜(その5)

昭和11(1936)年には、改組第1回帝展において初めて第四部(美術工芸部門)に人形の出品が認められるようになり、鹿児島寿蔵、野口光彦、野口明豊、羽仁春水、平田郷陽、堀柳女の6名が入選を果たします。

こうして公に秩序づけられた美術界の中に処を得たことにより、人形は芸術の一分野として大きく発展を遂げました。

この昭和初期の一連の動向を、後の世の人たちは『人形芸術運動』と呼んでいますが、この運動を通して雛人形にも、芸術性を帯びた鑑賞用としてのあり方が完全に具備されたということができます。

そして、この流れは戦後にも確実に引き継がれ、昭和30(1955)年に文化庁により、歴史的芸術的価値を認めてその存続に資するための「重要無形文化財の指定と保持者の認定」が行なわれた際に、人形の分野からは平田郷陽と堀柳女のふたりが認定を受けました。

9908その後、昭和36(1961)年には、鹿児島寿蔵が認定を受け、更に昭和41(1966)年には、私の祖父である原米洲の創り出した『人形の胡粉仕上の技法』が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として認定されました。

平安時代の“ひいな遊び”から始まった雛人形は、祓(はら)いの道具である「ひとがた」の呪術的(じゅじゅつてき)要素を受け継ぎ、そして昭和の『人形芸術運動』を通して芸術性を具備することにより、世界に誇るべき雛人形として現代に至っています。

2008年11月27日 (木)

現代の雛人形の系譜(その4)

昭和5(1930)年には、山田徳兵衛、西沢笛畝などが中心となり『童宝美術院』が設立されました。そして、「童心を表現し、童心を啓発し得るような芸術作品の向上普及を目的」として公募展が実施されました。

この展覧会は、専門の人形師だけではなく広く一般からも作品を募り、同じ土俵の上で審査を受けた最初の大きな人形展でした。

作品の完成度では、専門家の方がはるかに技術は上ですが、表現の新しさではアマチュアの方が進んでいるというようなことで、この展覧会は人形業界にとっても、アマチュアを人形界に活力を注ぐ新しい動きをしてとらえる絶好の機会となりました。

そして昭和8(1933)年には、人形製作の研究会をもつことの必要性から『日本人形研究会』が設立され、人形師や業界関係者、アマチュア作家、人形愛好家に至るまで、200名以上の人々を交えた研究会が行なわれるようになりました。

この研究会では、東京美術学校(現.東京藝術大学)や東京高等工芸学校(現.千葉大学工学部)を会場に、工芸や彫塑についての講習会、時代装束や着付けなどの風俗研究といった直接製作にかかわるものに加え、美術史や演劇、文学、更には帝展の見方、欧米工芸界の近況に至るまで、さまざまな専門家による講演会が行なわれ、人形師たちの啓蒙が図られました。

4539_2そしてこの研究会は、代々人形づくりを生業としていた人形師たちには、芸術全般の素養に触れる機会として、またアマチュア作家たちにはプロの技術を習得する機会として利用され、人形製作全般の質の向上ばかりではなく、新時代の人形のあり方を模索するために大きな貢献を果たしました。
※ 新しい時代の人形づくりが、ふらここのテーマです。

この研究会は、昭和14(1939)年に戦争で中段を余儀なくされるまで続きましたが、その活動の結果として、それまでの型にはまった伝統的な人形製作とは異なる、新しい材料や表現技法を用いた作品が、数多く見られるようになってゆきます。

2008年11月26日 (水)

現代の雛人形の系譜(その3)

昭和2(1927)年に帝展第四部(美術工芸部門)が開設されたことに刺激を受け、人形を第四部に進出させるべく、人形製作を芸術活動に結びつけるためのさまざまな活動が始まります。

まず昭和3(1928)年に、久保佐四郎、岡本玉水、平田郷陽などの人形師たちが、人形界を主導してゆくべく「白沢会(はくたくかい)」を結成しました。

また、その動きに刺激されて、野口光彦、佐久間珖甫などの人形師たちも「五芸会」を結成して、従来の人形から脱皮するための研究を始めました。

この時期、このように専門の人形師による、新時代の人形研究を目的とした会が次々と結成されてゆきます。

また、このような人形師を中心とする動きとは別に、昭和2(1927)年に童画家の武井武雄を中心とした「イルフトイス」というアマチュア団体が結成され、挿絵の中原淳一、洋風人形の川崎プッペらが集い、人形と玩具の可能性を追求する活動を始めました。

_dsc9635_2更には、同時期に、竹久夢二が彼のサロンに集まった女性たちと「どんたく社」を結成します。ここでは、後に人間国宝となる堀柳女らアマチュアの女性たちが、伝統的な人形表現とは全く異なる自由な発想で、人形に新たな芸術性を求める活動を展開してゆきます。

ふらここは、新しい時代の雛人形を追求してゆきます。

そして、このようなアマチュア作家による人形展が盛んに行なわれるようになると、その精力的な活動に刺激を受け、新しい時代にふさわしい人形を模索していた人形師たちの間では、新しい人形を創り出そうという機運がいよいよ盛り上がってゆきました。

2008年11月25日 (火)

現代の雛人形の系譜(その2)

人形が単なる子供の遊戯具や信仰の対象としてだけではなく、鑑賞用として発達してきた歴史の中で、昭和のはじめから15年頃にかけて盛り上がった“人形創作の活気あふれる活動”を見逃す訳にはゆきません。

この時期、人形製作を生業としていた人形師のほかに、婦人層、職業人などの素人が、大挙して人形界に参入しました。

_dsc9747そして、このような素人の人たちは、自分の趣味を満足させるためだけに留まらず、専門家である人形師たちと一緒になって、そして人形界の支援を得て、人形製作に取り組んでゆきました。

この一連の活動の大きな特徴として、これらの人々が、専門家や素人を問わず、過去のものとは異なる新しい人形を作り出そうという明確な目標をもっていたことが挙げられます。

そして、これらの活動は、雛人形の製作にも非常に大きな影響を与えてゆくことになります。

2008年11月24日 (月)

現代の雛人形の系譜(その1)

ひと口に「人形」と呼ばれるものの中には、大別して3種類の目的で製作されたものが存在します。

第1の種別は、子供の遊戯具としての人形です。
第2は宗教行事や民俗と結びついたものであり、信仰や呪術(じゅじゅつ)の対象としての人形です。
第3は鑑賞用としての芸術性がある人形です。

9406人形は世界のいずれの国にも、また、あらゆる民族にの中にも存在しますが、日本ほど芸術的香りが高い鑑賞用の人形が種類豊富に作られている国は他にはありません。

その意味で日本は世界一の人形国であるということができます。

日本の人形が今日のような発達を遂げた背景には、その発達の中核として成長を続けてきた雛人形の存在を見逃すことはできません。

それゆえ、ひな祭りは“Doll festival”と呼ばれ、日本の文化を代表する伝統行事として世界の人々にも広く知られている訳です。

2008年11月23日 (日)

自然に感謝し、勤労に励む!

今日11月23日は「勤労感謝の日」。
勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝し合う国民の祝日です。

この日は本来、「新嘗祭(にいなめさい)」が執り行なわれる日ですが、昭和23(1948)年に「勤労感謝の日」として祝日に制定されました。

「新嘗祭」とは、伊勢神宮において天皇ご自身が、その年にできたお米や穀物を神様にお供えし、共に食される儀式です。

134_5 太陽が万物を明るく照らし、多くの実りをもたらしてくれる。その自然の恵みに素直に感謝し、そして勤労に励む心は、日本人が本来もつ美しい国民性であり、失いたくない美徳ではないでしょうか。

企業の不祥事が頻発するご時世ですが、ふらここは初心を忘れることなく、誠心誠意を形にしてゆきたいと思っています。

2008年11月22日 (土)

「小雪(しょうせつ)」って何?

今日11月22日は「小雪(しょうせつ)」。「小雪」とは、二十四節気のひとつで、今日から「大雪(たいせつ:12月7日)」までの期間を指します。木々の葉が落ち、寒さが深まる頃。初雪が降り始める季節です。

H30 日本では、明治5(1872)年に「太陽暦」を採用するまでは、ずっと「太陰太陽暦」を使っていました。

「太陰太陽暦」とは、季節の移り変わりを太陽の運行によって、毎月を月の運行によって定めた暦です。そのため、12ヵ月は354日となり、太陽年の365日との差が11日間も生じてしまいます。

この差を調整するために、19年に7回の割合で閏月(うるうづき)を入れて調整したのですが、閏月のある年は1年が13ヵ月になるため、季節の変化を知るために「二十四節気」が用いられました。

日本は世界でも最も四季がはっきりとした、季節感の豊かな国です。都会に暮らしていると、そのようなことも忘れがちになりますが、ふらここでは、暦を頼りにして四季の移り変わりを楽しんでいます。

※ 画像提供 / 恒雪文化株式会社

2008年11月21日 (金)

初節句の迎え方(『「ひな人形」に関する調査』より)

今時のお母さんは、どのような意識で雛人形を購入し、初節句を祝うのでしょうか?

初節句を迎える子供を持ち、平成15(2003)年に雛人形を購入した268人の母親に対して、社団法人 日本人形協会が実施した『「ひな人形」に関する調査』報告書があります。

この報告書によると、
4915_2Q.初節句とは、
A.子供の健やかな成長を願うもの 80.2%
  日本の伝統的なもの 67.5%
  季節を感じさせる年中行事 37.7%

Q.初節句を祝う理由は、
A.子供が健やかに育って欲しい 85.1%
  女の子らしく情緒豊かに育って欲しい 51.5%
  日本の伝統を大切にしたい 31.3%

_dsc4604 Q.初節句の祝い方は、
A.ひな人形を飾りたい 90.3%
  家族が集まってお祝い会をしたい 64.2%
  親類を招待してお祝い会をしたい 22.4%

Q.ひな人形を購入しようと思った理由は、
A.記念として子供の思い出になる 57.8%
  ひな人形を買って初節句を祝いたい 57.8%
  自分も買ってもらったので子供にも 35.8%

4678_2 Q.ひな人形購入時の最終決定者は、
A.自分自身(母親) 48.5%
  自分の親(祖父母) 26.5%
  主人(父親) 11.9%

Q.ひな人形購入資金の負担者は、
A.自分の親(母方の祖父母) 77.6%
  主人の親(父方の祖父母) 22.4%
  自分たち夫婦(父母) 13.8%

_dsc9846Q.購入したひな人形のタイプは、
A.五人飾 39.9%
  親王飾 37.3%
  十五人飾 9.3%

Q.ひな人形購入時の重視点は、
A.人形の顔 85.8%
  色合い 51.1%
  材質・品質 47.0%
  衣裳のデザイン 41.8%
4743    コンパクトサイズ 32.1%
  高級感 28.0%
  しまいやすさ 26.5%
  豪華さ 23.5%
  価格が手頃 22.8%

Q.お祝いの出席者は、
A.主人 88.5%
  主人(父親)の親(祖父母) 73.3%
  自分(母親)の親(祖父母) 72.4%
  自分・主人の兄弟(伯父伯母) 29.2%

ふらここでは、素敵な初節句のお祝いを精一杯応援いたします。

   

2008年11月20日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その16)

平成時代になり、平安貴族の子供たちが“ひいな遊び”を楽しんだ時代より1000年以上が過ぎた現代でも、雛人形は今だに多くの人々に愛し続けられています。

人形・玩具研究の第一人者であった故 斎藤良輔先生は、その著書『ひな人形』(法政大学出版局)の中で、“現代の雛”を以下のように記しています。

多様化されている現代雛にも、共通した心理的底流がある。
それは、愛するわが子の「安泰をねがう」祈りがそこにこめられている、ということである。平安の遠い昔から、日本民族が心に抱いてきたものが、いまなお現代雛に投影し、生きつづけている。ドライな現代の風潮のなかで、これらの人形だけが“おひなさま”と昔ながらの敬称で呼ばれているあたりには、祈りという潜在心理の根の深さが感じられる。その意味で、日本のは、10世紀以上の長い流れのなかで、さまざまな移り変わりを経験しながら、いつも古くて、そして新しい生命を宿しているものなのである。

_dsc9476ふらここは、雛人形とは日本人の美しい心そのものだと考えています。そして、これからも、いつまでもいつまでも大切に守り続けてゆきたいと心から願っています。

2008年11月19日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その15)

長い歴史の中で、雛人形は天皇を象徴したものとは限らず、一般には公卿(くげ)社会の男女を表し、また江戸時代には武家社会の男女を表したものも登場しました。
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それが昭和時代に入ると、雛人形は意識的に皇室をかたどったものとして扱われるようになります。

そのようなことも、昭和6(1931)年に勃発した満州事変をかわきりに、やがて昭和16(1941)年には大東亜戦争へ突入してゆく軍国主義台頭の前兆であったのでしょうか?

大東亜戦争下の日本では、もはやひな祭りをする余裕はどこにもありませんでした。
※ 広島平和記念資料館

しかし、昭和20(1945)年に長い戦争が終わり、昭和25(1950)年の朝鮮戦争による特需景気、そして昭和30(1955)年の神武景気へと戦後景気の回復に並行して、再び雛人形の人気が復活するのにそれほどの時間はかかりませんでした。

更に“昭和元禄”の新語が登場した昭和42(1967)年前後には、高度経済成長の波に乗って雛人形はますます豪華になってゆきます。

2008年11月18日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その14)

昭和時代に入ると、雛人形の飾り方に大きな変化が生じました。

それまでは男雛を向かって右、女雛を向かって左に飾っていたものが、東京では男雛と女雛の位置を反対に飾るようになります。

これは昭和3(1928)年11月10日に、天皇陛下の即位の大礼を紫宸殿で挙行の際、天皇の高御座(たかみくら)が中央に置かれ、皇后席はその向かって右のやや後ろに据えられたのを参考にしたといわれています。

明治、大正、昭和の三代の即位式の中で、天皇と皇后おそろいの儀典はこれが初めてであり、東京の雛人形業界では、この「即位御大典」の位置を参考にして、改めて男雛と女雛の位置を決定しました。

しかし、この飾り方は当時かなりの物議をかもし、しばしば「左右問題」をめぐる議論が繰り返されました。特に京都を中心にした関西地方では、古くからの飾り方を正しいとして激しく反論しました。

東と西で二つに分かれたこの飾り方も、雛人形販売の主な拠点であった百貨店が東京方式を採用したことから、やがて男雛を向かって左、女雛を向かって右に置く飾り方が一般に普及し、大勢を占めるようになりました。
Image001_3   
ちなみに宮内庁の話では、「現在は公式の席でも非公式の席でも天皇陛下が向かって左、皇后様が右です」とのことです。


『昭和天皇と香淳皇后』昭和50(1975)年撮影

2008年11月17日 (月)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その13)

江戸時代には京都や大阪と江戸では、雛段の飾り方が異なっていたことは前にも触れました。

これが、江戸時代の末期頃からは、江戸でも京都形式の官女や随身を取り入れ、これに江戸独特の五人囃子を加えた飾り方が一般的となります。
また調度類も、公卿(くげ)風なものに江戸の武家や町家風の諸道具を付け加えた、現在の形式が次第に広まってゆきました。

01 現在では、内裏雛を最上段に飾り、左右に雪洞(ぼんぼり)を置き、背後に屏風を立てます。また、内裏雛の中央前に三方(さんぼう)に徳利を乗せて供えます。
次段は三人官女(中央が坐り姿で盃を持ち、向かって右は長柄、左は銚子を持つ立ち姿)です。
三段目は、五人囃子(能の囃子方と同じ位置で、向かって右から扇を持って謡う者、次が笛、中央が小鼓、次が大鼓、左端が太鼓)です。
四段目は、随身(ずいしん)を左右(左大臣を向かって右、右大臣を向かって左)に置き、その中央に御膳を供えます。
その次の段には向かって左に橘(たちばな)、向かって右に桜を飾り、その間に仕丁(衛士ともいい、向かって右から立傘、中央が沓台、左側が台笠)を並べます。
そして、その下段には調度を並べ、最下段には駕籠(かご)や御所車などの乗り物を飾ります。

この飾り方は、大正12(1923)年に起きた関東大震災の後、百貨店が雛人形と調度を組み合わせて売り出したことが始まりですが、今日ではすっかりお決まりの物として定着しています。

2008年11月16日 (日)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その12)

明治時代になり、“文明開化”を唱えて社会の近代化が進められる中で、明治5(1872)年に新暦(太陽暦)が実施され、それの伴って五節句の廃止が発令されると、ひな祭り端午の節句の行事は急速に衰えてゆきました。

R03423_2 しかし、庶民の節句に対する関心が簡単に消え失せることはなく、明治10(1877)年に国内産業を興隆させる目的で第1回内国勧業博覧会が東京で開催されると、再び節句人形の製作が活気を取り戻してゆきます。

また、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)の2度の大戦によりナショナリズムが高まると、ひな祭りの行事は、明治天皇が国民教育の基本理念を明示するために下した「教育勅語」に基づく国民的な行事であるとして、ますます盛んに行なわれるようになりました。

※ 「明治時代の雛人形」(『風俗画報』69号より)

そして、その繁栄ぶりに更に拍車をかけたのが、明治末期の百貨店の出現でした。
まず明治40年に三越呉服店がデパートメント・ストアの組織を整えると、これに次いで白木屋、松屋、松坂屋などの大呉服店が続々と同様の営業法に改めました。

これらの百貨店が互いに競い合って、正札販売や商品宣伝運動などの近代的な商法で、高級感あふれる斬新な雛人形を次々と創作し大々的に売り出すようになると、雛人形はもはや古臭い因習のシンボルではなく、新しい時代を反映するファッショナブルな商品へと変貌(へんぼう)を遂げてゆきます。

【注】五節句・・・人日(じんじつ):1月7日 七草の節句、上巳(じょうみ):3月3日 桃の節句・ひな祭り、端午(たんご):5月5日 菖蒲の節句、七夕(たなばた):7月7日 星祭、重陽(ちょうよう):9月9日 菊の節句

2008年11月15日 (土)

「七五三」って何?

今日11月15日は「七五三」。「七五三」とは、三歳、五歳、七歳の子供の成長を祝って氏神様(うじがみさま)にお参りをする行事です。

753js_2 「七五三」の原型になっている儀式は、三歳男女児の「髪置き(かみおき)」、五歳男児の「袴着(はかまぎ)」、七歳女児の「紐落し(ひもおとし)」のお祝いです。

「髪置き(かみおき)」とは、それまで剃(そ)っていた、あるいは短かった髪を伸ばして結髪すること。
また「袴着(はかまぎ)」とは、初めて袴(はかま)を着けること。
そして「紐落し(ひもおとし)」とは、それまでの紐付きの着物に代わって、初めて本仕立ても着物を帯で締めて着ることです。

「七五三」を11月15日に祝うのは、この日が旧暦では二十八宿の「鬼宿(きしゅく)」という最吉日であり、江戸幕府五代将軍 徳川綱吉の長男 徳松が病弱であったため、この日に健康を願ったことが始まりだといわれています。

ちなみに、童謡「とおりゃんせ」は七五三の祝いに天神様にお札を納める場面を歌ったもの。
昔は子供の死亡率がとても高かったため、「七つ前までは神のうち」といわれ、七歳になって初めて社会からも人格が認められ、正式に氏子入りが許されると共に、村の行事に参加することが認められました。そんな文化が、童謡の中にも残っているという訳です。

子供の成長の節目ごとに氏神様に加護を祈り、そして家族全員で子供の無事な成長を祝う。「七五三」とは、そんな慈愛の心を形に表した、美しい日本の伝統行事。ふらここも、そんな日本の文化を大切に守ってゆきたいと考えています。

2008年11月14日 (金)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その11)

『次郎左衛門雛』と前後して現れた代表的な江戸雛に『古今雛』があります。
この雛人形は、明和年間(1764~72年)に上野池之端の雛人形問屋が日本橋十軒店の人形師  原 舟月に作らせた江戸生え抜きの雛人形です。

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『古今雛』の顔は『有職雛』を原型とし、写実的で精巧に作られ、両目に玻璃玉(はりだま:ガラス)や水晶をはめ込んだ作品もありました。

衣裳には、金糸や色糸などで鳳凰(ほうおう)、薬玉(くすだま)などの縫紋(ぬいもん)を加工し、袖には紅綸子(べにりんず)を用いて華麗な彩色に仕立てました。

※ 山形県鶴岡市「致道博物館」所蔵(画像提供 /  庄内観光コンベンション協会

こうした近代的な容貌(ようぼう)と美しい装束が人気を呼び、それまで王座を占めていた『次郎左衛門雛』に代わり、江戸のみならず京都や大阪でも大流行しました。

また、当時は上方と江戸との間で盛んに雛商いの交流があったので、原 舟月が彫った顔の仕上げを京都の職人に依頼するなど、専門分野ごとの分業による雛人形の製作が行なわれていました。

そして、これ以降の雛人形は、ほとんどが『古今雛』にならって作られるようになり、この型を踏襲して今日に至っています。

2008年11月13日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その10)

『次郎左衛門雛』が江戸に定着した宝暦年間(1751~63年)に、京都では新しい雛人形が生まれました。有職故実(ゆうそくこじつ)に基づいて、公卿(くげ)の衣裳を正しく雛人形化したもので、明治以降に『有職雛』と呼ばれるようになった雛人形です。

Syusoku_2 宮中に仕えて公式装束などの調整を掌(つかさど)っていた公卿の高倉家と山科家が調進したことから、当時は『高倉雛』や『山科雛』の名前で呼ばれていました。


※ 山形県鶴岡市「致道博物館」所蔵
(画像提供 /  庄内観光コンベンション協会

衣冠(いかん)姿、あるいは直衣(のうし)姿の雛人形が多く、特に後者の場合は着替え用として男雛には「束帯(そくたい)」、女雛には「十二単(じゅうにひとえ)」を添え、思い思いに着せ替えを楽しみました。


【注1】衣冠(いかん)・・・「衣冠」とは、「束帯(そくたい)」の略装として広く参内(さんだい)に用いられた装束です。「束帯」が「燕尾服」に相当するとすれば、「衣冠」は「モーニングコート」に当たる公服で、自家の大儀である祭典や婚礼などに用いられました。

【注2】直衣(のうし)・・・「直衣」とは、平安時代のエリート貴族の平常服です。一般の公卿が誰でも着られる服ではなく、天皇の信任が篤(あつ)い人、あるいは身分の高い人に限り、天皇の宣旨(せんじ)を賜って初めて宮中への出仕に着られる服です。『源氏物語』には、直衣姿の光源氏が描かれています。

2008年11月12日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その9)

江戸時代初期、いわゆる元禄期(1688~1703年)以前には雛段はあまり用いられず、毛氈(もうせん)の上に内裏雛だけを飾り、調度類も少なく、菱餅や白酒を供える程度の飾りでした。

江戸時代中期になり、雛市が盛んになるにつれ、雛段に雛人形を飾るようになり、調度類も賑やかになります。

雛段の数も、宝暦~明和年間(1751~71年)には二、三段であったものが、安永期(1772~81年)の頃は四、五段のものも現れ、それが江戸末期には七、八段物まで見られるようになります。

雛段の飾り方は、京都や大阪では御殿を飾り、その中に内裏雛を入れ、官女、随身、仕丁(衛士)、桜橘、調度類に燭台、そして市松人形などを飾りました。
また江戸では、御殿の代わりに屏風を立てて内裏雛を飾り、江戸独特の五人囃子、武家の嫁入り道具を模した調度類、そして雪洞(ぼんぼり)と桃の花を飾りました。

1000003643_9900021_2 江戸時代中期に流行した人形に、元文~寛保年間(1736~44年)に人気を博した京都四条の若衆形人気俳優、佐野川市松に模して作られた市松人形があります。

また、この頃から、最初は女子の誕生祝とは関係がなかったひな祭りが、女子の初節句を祝う行事となり、雛人形の贈答も盛んに行われるようになります。

『佐野川市松の祇園町白人おなよ図』東州斎写楽
(版画『寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵』より)

※画像提供 / 文化庁

2008年11月11日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その8)

京都で有名な人形師であった雛屋次郎左衛門が、宝暦11(1761)年に江戸に下り、日本橋室町二丁目に店を開くと、雛屋次郎左衛門が創始した『次郎左衛門雛』が、『享保雛』に代わって次第に江戸の人気を独占するようになります。

もともと京雛であった『次郎左衛門雛』は、江戸の地にすっかり根を下ろし、その人気は宝暦に続き、明和、安永、天明、寛政年間まで約30余年間に及び、上下階級に広く親しまれました。

1170170442_4 『次郎左衛門雛』の特徴は、丸顔に引目鉤鼻(ひきめかぎばな)。愛らしい丸い顔に切れ長の目と小さな鉤鼻(かぎばな)。そして、ちょこんと紅を置いた小さな口元は、それまでの面長の顔と違い、庶民に親しさを与えました。

男雛の衣裳は、黒袍(くろのほう)に袴(はかま)をつけた公卿(くげ)の束帯(そくたい)姿。女雛は、五つ衣(いつつぎぬ)、唐衣(からぎぬ)に裳(も)の装束です。

江戸の庶民に愛され、いくつもの川柳に詠まれたこの雛人形は、与謝 蕪村(よさの ぶそん:1716~84年)の句にも次のように詠まれています。

たらちねのつまゝずありや雛の鼻

※ 画像提供 / 成巽閣

2008年11月10日 (月)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その7)

雛人形が町人社会にまで広く流通するようになった元禄~享保(1688~1736年)の頃、一定期間に、許された場所で、雛人形を販売する「雛市」がたつようになります。
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「雛市」とは、道の中央に仮店を設けて、本来の両サイドの店と合わせて3列あるいは4列に並んだ店で雛人形を売る形式で、現在では東京・浅草観音境内の「仲見世」にその名残を留めています。 
※『十軒店の雛市』(『江戸名所図会』より)

Ph07_01享保年間(1716~36年)には、既に100万都市にまで成長していた江戸では、十軒店(じゅっけんだな:東京都中央区日本橋室町3丁目付近)を中心に、浅草茅町(あさくさかやちょう:東京都台東区浅草橋)や人形町など各地に雛市がたち、どこでも大変な賑わいを見せていました。

※『十軒店跡』の碑
ふらここもここ日本橋で生まれました!


元禄2(1689)年3月、松尾芭蕉がみちのくの旅に出発する際に詠んだ句に、雛人形が当時の庶民の生活に浸透している様子が窺(うかが)われます。

草の戸も住替る代ぞひなの家(『奥の細道』)

2008年11月 9日 (日)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その6)

『寛永雛』の次に登場する雛人形が、『享保雛』です。

この雛人形は、元禄期が過ぎて享保年間(1716~36年)に流行したもので、比較的に大型のものが多く、60㎝以上のものまでありました。

Kyouho1_3 男雛は両袖を極端に張り、太刀を差し、笏(しゃく)を持っています。
女雛は、五つ衣(いつつぎぬ)と唐衣(からぎぬ)を着た姿で、袴(はかま)は綿を入れて丸く膨らませてあり、頭には天冠(てんがん)を被り、手には檜扇(ひおうぎ)を持っています。

享保雛(男雛49.8㎝、女雛41.8㎝)

これらの衣裳は、金襴(きんらん)や錦でできており、顔は面長でとても写実的な表情をしています。

この豪華な雛人形は、その頃に台頭してきた町人社会にも迎えられましたが、8代将軍 徳川吉宗が行なった享保の改革により、「八寸(約24㎝)以上のものの制作を禁じる」として、しばしば取締りを受けました。

※画像提供 / 財団法人 本間美術館

2008年11月 8日 (土)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その5)

長い戦乱の時代が終わって、江戸時代の平和な世の中になると、室町時代に芽生えた坐り雛は大きく発達を遂げてゆきます。

Hina05布で作られた江戸時代の坐り雛として、最初に登場する雛人形は『寛永雛』です。

現存している『寛永雛』は、男雛が12㎝余り、女雛が9㎝余りの小さな雛人形。女雛は唐衣(からぎぬ)も裳(も)も付けず、男雛と同じ小袖を着て、両手を左右に広げています。

寛永に続く正保元年(1644年)三月朔日に、三代将軍 家光の娘、千代姫7歳の祝いを兼ねて、諸老臣が雛人形を献上した記録が残っています。

この頃には、京の文化は江戸の大奥にまで浸透しており、その後次第に一般庶民にも広くゆき渡っていきます。

そして、製作技法の発達と共に、雛人形は益々精巧で華美なものになってゆきます。

※ 画像提供/京都国立博物館

2008年11月 7日 (金)

冬の始まり

今日11月7日は「立冬(りっとう)」。「立冬」とは、二十四節気のひとつで、“冬の気配が立つ頃”という意味です。

この日は、立春、立夏、立秋と並んで季節の節目を表し、今日から立春の前日(節分)までが冬になります。

Nanakamado01p_2 私たちが現在使っている新暦(太陽暦)は、旧暦(太陰太陽暦)とは四季の区切り方が違い、旧暦では10月から12月までが“冬”。今日は、旧暦の10月10日ですから、これから3ヶ月間が冬になる訳です。

そして、新暦の冬は12月から2月までなので、旧暦の冬とは約1ヶ月ほどのズレがあるのです。

季節感がなくなって久しい現代人の暮らしですが、四季の移り変わりは、旧暦の中にこそ古来から伝わる知恵が隠されているようです。

ちなみに、今年の冬は寒さが厳しくなるそうです。ふらここでは、冬は雛人形の売り出しシーズン。寒さに負けないよう、頑張って素敵な雛人形をお届けいたします。

写真提供/北の大地の贈り物 Photo by (C) RARURU

2008年11月 6日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その4)

雛人形をひな祭りに飾る風習が広く庶民の間に浸透するのは、江戸時代に入ってからのことですが、それ以前の室町時代に、雛人形は造形の上で新たな段階を迎えることになります。

この時代は、中国(明)からもたらされた工芸美術など様々な外来文化を受け入れつつも、それらを逞(たくま)しく消化して、日本独特の文化を作り出した時代でした。

そして、能や狂言、また茶道や活花など数々の室町芸術が生まれました。

また、年中行事が武家や庶民の間で独自の発展を遂げ、三月三日にひな祭りが行なわれるようになったのもこの時代です。

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“室町雛”

※江戸時代の考証随筆『骨董集』(山東京伝)より

こうして、身の穢(けが)れを祓(はら)い川に流すための「ひとがた」は、家に飾り観賞するための「にんぎょう」へと発展し、続く江戸時代に大発展を遂げる“坐り雛”へと引き継がれてゆきます。

2008年11月 5日 (水)

冬の風物詩「酉の市」

2008_11050004_2 今日11月5日は一の酉(いちのとり)。でも、「酉の市(とりのいち)」は関東地方特有の年中行事で、11月の“酉の日”に各地の鷲(おおとり)神社で行なわれるお祭りです。

「酉の市」は、開運招福・商売繁盛を願うお祭りで、代表的な名物は、縁起熊手。運を「かっ込む」、福を「とり込む」という、江戸っ子らしい洒落(しゃれ)の利いた縁起物です。

また、切山椒(きりざんしょ)と呼ばれるお菓子も、酉の市の名物として楽しみのひとつです。

東京では、浅草の鷲(おおとり)神社/長国寺、新宿の花園神社、目黒の大鳥神社が特に有名ですが、都内では25ヵ所ほどで酉の市が開かれているそうです。

ふらここでも、今日の一の酉に商売繁盛を祈願してきました。

今年の「酉の市」は、今日の一の酉のほか、二の酉が11月17日(月)、三の酉が29日(土)の計3回。三の酉まである年は火事が多いといわれているので、年末は「火の用心」。

鷲神社                                                              長国寺

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※今では境内も別々の鷲神社と長国寺は、明治元年に神仏分離令が出されるまでは鷲大明神社と呼ばれ、長国寺の住職が別当(べっとう)を兼ねていたそうです。    

2008年11月 4日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その3)

雛人形の始まりが、源氏物語にも登場する“ひいな遊び”であることは前にも触れましたが、平安時代にはままごと遊びに用いる男女一対の人形であったものが、1000年以上の長い歴史の中で様々に変化を遂げながら、今日の雛人形となってゆきます。

2008_11040026_edited 平安時代には、人形は「ひとがた」と呼ばれ、身の穢(けが)れや禍(わざわ)いを移し負わせて、川や海に流す祓(はら)いの道具でした。

源氏物語の須磨の巻にも、「三月の朔日に出で来たる巳の日」に、海岸で陰陽師(おんみょうじ)に祓(はら)いをさせたのち「船にことごとしき(※おおげさな)人形(ひとがた)のせて流す」のを源氏がながめる場面が描かれています。

呪術(まじない)的な「ひとがた」が、同時に“ひいな遊び”に用いられた遊びの道具である人形と密接に結びつき、更には、中国から伝わった「上巳の節供(じょうみのせっく)」と複合して、“雛人形”となったのは室町時代になってからのことです。

この頃、ようやく「ひとがた」は「にんぎょう」と呼ばれるようになり、観賞用の坐(すわ)り雛が登場し、三月三日にひな祭りが行なわれるようになります。

2008年11月 3日 (月)

「文化の日」に、平和に感謝する!

今日11月3日は「文化の日」。この日は、明治天皇の誕生日であり、明治時代には「天長節(てんちょうせつ:明治節)」と呼ばれていました。

またこの日は、大東亜戦争終結後の1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日でもありますが、明治天皇の偉業を偲(しの)ぶ当時の人々の思いを酌(く)み、「憲法記念日」は新憲法が施行された5月3日と定められ、11月3日は、1948(昭和23)年に祝日法により「文化の日」と定められました。

以前、自衛隊の第1次イラク派遣の際に「ヒゲの隊長」として注目を集めた現参議院議員の佐藤 正久(さとう まさひさ)さんにお会いする機会があったとき、イラクの人たちが親日感情を持つ理由として下記の2つを挙げていました。

ひとつは、日本のビジネスマンたちがイラクの経済基盤を作ってくれたこと。そして2つ目は、かつて日本が日露戦争に勝ったことだそうです。

もちろん戦争は決して良いものではなく、むしろ絶対にしてはいけないことに違いはありませんが、でも祖国・日本を必死で守ってきてくれた人たちのお蔭で、今日の日本の平和があり、ひな祭り端午の節句などの文化が守られていることを私たちは忘れてはいけないのではないでしょうか。
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そんなことをしみじみと思う今日「文化の日」には、日本において文化の発展に功労のあった人たちに文化勲章が授与され、また文化功労者および各種褒章受賞者の伝達式が行なわれます。

2008年11月 2日 (日)

『源氏物語の1000年‐あこがれの王朝ロマン‐』展に想う

2008_11020027今日は可愛い愛娘と一緒に、横浜美術館で開催されている『源氏物語の1000年‐あこがれの王朝ロマン‐』展を観に行ってきました。

東日本では「源氏物語千年紀」に関連する最大のイベント。会期が明日3日までとあって、さすがに大混雑でしたが、1時間10分待って入場した甲斐があって、素晴らしい展覧会でした。

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この展覧会では、「源氏絵」と呼ばれる源氏物語の内容や場面を絵画化した屏風絵や浮世絵、更には近世の日本画に至るまでの作品がずらりと展示されています。また、最後の特別室には、大和和紀さんの漫画『あさきゆめみし』の展示もありました。

鎌倉時代から平成の現代までの源氏絵を一挙に見ることができる機会は、めったにありません。1000年もの永きに渡り、様々な形で読み続けられてきた源氏物語の素晴らしさを改めて、じっくりと見せていただきました。

そして、源氏絵に描かれた平安装束の数々は本当に美しく、雛人形制作にとっても非常に参考になるものでした。

この源氏物語は、英訳されること2回。最初の英訳は、アーサー・ウェリー氏によるもので、このとき紫式部が日本人で初めて、ユネスコ本部から[世界の偉人]に認定・登録されました。

2回目の翻訳は、今年の8月に惜しくも他界されたエドワード・G・サイデンステッカー氏によるもの。『雪国』の翻訳では、川端康成のノーベル文学賞受賞に大いに貢献し、今年の文化勲章受賞者であるドナルド・キーン氏とも親交が深かったサイデン氏。氏の原文に極めて忠実な英訳ゆえに、世界の研究者が源氏物語の研究を飛躍的に深めることができるようになったといわれていますが、生前にサイデン氏は、“自分の人生の最大の仕事は源氏物語の翻訳だった”と語っていたそうです。

こんなにも世界中の人たちから愛され、賞賛される古典文学を有する日本という国に生まれ育ったことのありがたさを、しみじみと実感した一日でした。

2008年11月 1日 (土)

漫画で読む『源氏物語』

今日、2008年11月1日は、『源氏物語』が宮中で読まれていたと考えられる記述が、作者の紫式部の日記(『紫式部日記』)に出てくる寛弘5(1008)年11月1日から数えて、ちょうど1000年目。

茶道裏千家15代家元の千玄室さん、作家の瀬戸内寂聴さん、そして今年の文化勲章受賞の名誉に輝いた米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんなどの呼びかけにより始められた「源氏物語千年紀」事業など、各地で源氏物語に関する催しが数多く開かれています。

また、今日の午前中に国立京都国際会館で開催された「源氏物語千年紀」記念式典には、天皇、皇后両陛下もご臨席されました。

61z6v57aol__ss400__2 そこで、源氏物語の華麗な世界へいざなう入門書としてふらここのお薦めは、大和和紀さんの漫画『あさきゆめみし』(講談社)。累計1700万部も読まれたという超大作で、宝塚歌劇の原作にもなり、中国語、インドネシア語、ドイツ語にまで翻訳されています。

是非、この秋の夜長に源氏物語の華麗な世界に浸ってみてください。

あさきゆめみし 1 完全版 (1) (KCデラックス) (KCデラックス)
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※ 2009年1月にフジテレビ“ノイタミナ”他にてTVアニメ化され、放送が決定しました。
    アニメ「あさきゆめみし」公式サイト